密着型ブルマーの不可思議な歴史、なぜブルマーはそうなった
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1960年代半ばから90年代半ば頃まで、女子体操着として長く着用されてきた密着型ブルマー。
「体形が丸見え」「下着同然」…。恥ずかしさと不満がよみがえる方も多いだろう。
なぜ学校で採用され、約30年間も継続されてきたのか。そんな疑問に迫った関西大学社会学部の山本雄二教授の著書『ブルマーの謎』(青弓社)
をひもとけば、進歩派と保守派のねじれた支持と、学校現場をとりまく“大人の事情”が見えてくる。(横山由紀子)
密着型ブルマーは60年代半ば頃から中学校などで女子体操着として採用され始め、全国の学校に急速に普及していった。
ただ、どんな経緯で取り入れられたのかは謎だった。「誰も説明できないまま30年間も続いてきた。組織の力学が働いていると思ったのです」。
山本教授は学生服メーカーなどへの取材や文献の調査を行い、教育学的、社会風俗的な見地からその謎に迫っている。
ブルマー時代背景
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そもそも、ブルマーが導入されたのは1900年代前半頃。
袴(はかま)姿で体育を受けるのが不向きとされ、膝下まで大きく膨らんだニッカーボッカー風ブルマーが採用された。
その後、長さは次第に短くなり、緩やかに尻を包み込むちょうちんブルマーが60年代半ば頃までの定番だった。
それが、あっという間に密着型ブルマーにシフトしたのだ。
《しゃがんで立ち上がればお尻のほっぺたが顔を出す。
……そもそもそれ自体が下着同然であり、しばしば『はみパン』と呼ばれていやがられたように、
パンツがブルマーからはみ出して女子に恥ずかしい思いをさせてきた》
山本教授は「校内に性的な要素を持ち込むことに強い警戒感を抱いてきた学校が、
密着型ブルマーを採用したことは、不思議な出来事」と首をひねる。密着型が選ばれた理由や背景については諸説ある。
有力なのは「64年の東京五輪で旧ソ連の女子バレーボールチームがはいた密着型ブルマーに少女たちが憧れた」という説だ。
だが山本教授は「仮に憧れがあったとして、これまで学校が少女の憧れを制服に反映させたことがあっただろうか」。
動きやすくなったという機能向上説も、「すでにちょうちん型が、動きを妨げないよう工夫されており、運動面の機能は変わらなかったといえる」と否定的だ。
山本教授は「普及の速度と規模をみて組織的な力学が働いた」と考え、当時の全国中学校体育連盟(中体連)に注目、
こう結論付けた。発言権を得るために資金を必要とした中体連が学生服メーカーと組んで、
従来とは全く違う製品で体操服の総入れ替えを図った。中体連が普及に協力する代わりに一部を寄付金として得る-というものだ。
「これによって、まず東京の学校に浸透し、他社も参入して全国に広がっていった」。
当時、東京五輪の女子体操選手のレオタード姿を通して、女性の肉体に健康美を見いだす感覚が生まれており、
「提案された学校も抵抗感なく容認できたのでしょう」。
そして消滅するブルマー
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その密着型ブルマーも90年代半ばに消滅する。
俗説では、使用済みのセーラー服やブルマーを販売する「ブルセラショップ」の出現で性的まなざしの対象になったことが原因といわれるが、
山本教授は「89年に新語・流行語大賞になったセクハラの概念が日本社会に急速に浸透したことが大きい」とみる。
以降、女子体操着はショートパンツやハーフパンツが主流になった。
約30年間、女子たちに恥ずかしい思いを強いてきた密着型。
山本教授は「身体の解放と自立を肯定する戦後民主主義派と、恥じらう女子に清純さと可憐(かれん)さをみる婦徳派によって、
意図しないまま支えられてきたのではないだろうか」と分析。
学校組織の力学によって普及し、進歩派と保守派のねじれた支持によって、
道徳的意味合いが見いだされていたのだ。体操着としての役割を終えた密着型だが、
防犯と下半身の防寒という実利目的のため、いくぶん姿を変えながら今もひっそりと生き続けているという。
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